何もない時代に銀河鉄道999にどハマりした話

私は現在53歳だ。

現在も好きなアニメがあれば配信で観たり、円盤を買ったり、原作を揃える程度ののんびりとしたアニオタである。

しかし私が12歳の1979年、私はとあるアニメにどハマりして、その後狂乱の数年を送ることになる。

そのアニメとは劇場版銀河鉄道999
若者でも名前ぐらいは知っていると思う。

当時すでにテレビ版は放映していて、それも好きで毎週楽しみに観ていた。

しかし私を沼に突き落としたのは劇場版のほうだったのである。

忘れもしない8月12日。母と妹とイトコで観に行き、あの名ラストシーンのプラットフォームでの別れを観て、あまりの衝撃にその後食べたハンバーグランチが何の味もしなかった。

その夜は、何度もラストシーンの映像が頭をめぐり、私は号泣した。

次の日に、私は999オタへと覚醒していたのだった。

 

私の愚行を語る前に1979年がどういう時代かというのを軽く説明しておく。

ネットがないのは当然のこととして、ビデオが普及していなかった。

一応ビデオデッキは存在していたが、ガスコンロぐらい巨大で30万ぐらいしたと思う。

ご家庭には高嶺の花で、実際我が家がビデオデッキを購入したのはその7年後である。

当然テレビは本放送がすべてであり、見逃したら次にいつ観られるかわからない絶望と隣り合わせだった。

ハマったのは劇場版ではあったが、テレビ版でも原作でも999と名のつくものなら何でもいい状態に陥り、原作コミックス(その頃で12巻ぐらい)を買いそろえ、ロマンアルバムを買い、フィルムコミックスを買い、ドラマ盤LPを買った。

もちろん一気に買い揃えたわけじゃなく、月1000円のこづかいとお年玉を駆使してちびちび揃えた。ドラマ盤とは何かというと劇場版の音声のみを収録したレコードである。
それを流しながらフィルムコミックスを音声に合わせて読むことが、ビデオのない時代の作品の反芻の仕方だった。

ノベライズも全部買った。

藤川桂介版と若桜木虔版と、あとなんかよくわからない人の書いたのが二種ほどあった。
藤川桂介版は、ラストのキスシーンで「メーテルの薄桃色の唇が──」と表記されていてちょっと興奮した。

若桜木虔版はコバルト文庫で、やや読者年齢層が高めだったので、トチローとエメラルダスの肉体関係をほのめかしていたり、鉄郎とメーテルが帰路の999の道中にセックスまでしちゃったことをほのめかしたりしていた。
いま思うとけっこう解釈違いだが、当時はめちゃくちゃ興奮した。

 

そんなものを舐りながらも999への渇望は増していき、休日ともなれば何か新しい刊行物はないかと自転車で近隣の本屋を巡った。

あの時代、一番不足していたのが情報だったのだ。

いまのように公式がアカウント作って自ら情報を発信していくような時代でなく、せいぜいアニメ誌や原作の掲載誌に広告が出るくらい。しかも時々映画情報誌などがたわむれにアニメ特集などしたりするから油断がならない。とにかくいろんな雑誌を立ち読みして999の情報を求めていた。

どこかで999のリバイバル上映をしていないかと、ぴあもチェックしていた。

グッズなどもいまの時代のように潤沢ではなかった。
一番メジャーなのが下敷きとペンケースだった。
下敷きは3種持っていた。

あと何故かメンコを持っていた。
小6女子がメンコなどやりはしないが、999の絵がついてたら買わざるを得ないのである。ちなみに現在もとっておいてある。大判と中判と小判の3種の絵柄で、大判のほうは劇場版でカットされたシーン(鉄郎が機械化人の子供からスケボーを奪いとるシーン)の絵が使われていてなかなかレア感があって気に入っていた。

そんなあるとき、通販雑誌を見ていてとんでもないものを見つけた。

劇場版999の8ミリフィルムである。

ビデオの普及していない時代だったので8ミリ!
値段は確か1万円以上した。いま検索してみたらメルカリやヤフオク!で出品されており、定価は14500円だった。

お年玉を駆使すればなんとか買えなくもない値段だったが、親が絶対許してくれないだろうし、隠れて買うことも当時のスキルではできなかったので諦めた。
しかし思いがけないところで「999の商品」に出会えたということが嬉しかった。
こういうことがあるから、あらゆる媒体をチェックする必要があった。

 

当時の子供が情報を求めてやることと言ったら「文通」である。

私はアニメ誌の文通コーナーから、同い年の東京在住の男子と文通することになった。
クラスではアニオタは私ぐらいで、999に限らずアニメの話ができることが嬉しかった。その男子はアニメーターを目指しているとのことで業界っぽい単語をやたら使っていた。あと自分の家にコピー機があることを自慢していた。いまの自分ならイキっていると思うところだが、当時の自分は「すごいなあ。東京はやっぱり自分の住んでいる世界とは違うなあ」とひたすら感心していた。

ちなみにこの男子との文通は、その後6年続いたが、なんとなく自然消滅していった。


それはともかく、卒業が近づいた頃、児童館でタイムカプセルを埋めるという行事が行われた。
当時、流行ってたんだ。タイムカプセル。
20歳になった時に掘りだす予定で、大人になった自分に宛てた手紙を入れる。
私は999のレターセットを使い「私はこの先、大人になってもずっと999を好きでいつづける」という痛々しい宣言をしたためてタイムカプセルに入れた。

数年後、児童館が全焼した。
その後の建て替えのどさくさでタイムカプセルは紛失し、結局封印が解かれることはなかった。
20歳の自分がその手紙を読んだら黒歴史みしか感じなかっただろうと思うので、それでよかったのかもしれない。

精神面での影響はポジティブなものばかりでなく、999が好きすぎて時に恐怖を感じることもあった。

野沢雅子(敬称略)や池田昌子(敬称略)や松本零士がある日突然死んでしまったらどうしよう…。そんなわけのわからない妄想に囚われて震えたりもしていた。
好きな人がある日突然いなくなるかもしれないという可能性……それを初めて感じさせてくれたのが999でもあったのだ。

それから40年……皆様息災で何よりです。

 

そんな私の狂騒の日々を鎮めたのは、奇しくも「さよなら銀河鉄道999」だった。

時は2年後の1981年。私は中学2年になっていた。
劇場版999の続編に多大な期待を寄せつつも、心の片隅で「一度別れたのにまた出会うの?メーテル元の姿に戻るとか言ってなかったか?」という訝しむ気持ちもあったのである。

予想は当たったというか、ストーリーラインはほぼ前作と同じで、あれだけ綺麗にまとまっていた前作に比べ蛇足感がひどかった。あと当時の流行りでやたらシンセサイザーを駆使した音楽も「なんか違う」としか思えなかった。

それと機械化人間の食糧が生身の人間の魂を吸い上げてカプセル化したものとわかり、鉄郎は涙を流しながら、機械化人間のメタルメナににじり寄るが、そのシーンにもちょっとしらけてしまった。
お前だってビフテキ食ってたやん、牛に「モ~~~」って涙流してにじり寄られたらどうすんだよと考えてしまった。

そう考えてしまうのは、私がこの2年でそれなりに大人になっていたということだろう。成長というのは何かを取り込み、何かを脱ぎ捨てるのくり返しだから。

余談になるが、ここでちょっと松本零士という作家の話をしたい。

私は999オタを経て松本零士オタにもなり、作品も多く読んできた。
松本零士作品は世間に思われてるほどハートフルではない。
むしろどちらかというと「血が青い」部分が多い。
松本零士作品の主成分は「ロマン」である。
ロマンのための友情、ロマンのための恋、ロマンのための戦い、ロマンのための死、ロマンのための孤独。
物語ってそういうもんじゃないの?と思われるかもしれないが、とにかく松本作品はロマンが最優先になりすぎててキャラクターの諦めがめっちゃいい。
物語において登場人物たちは「ロマンに準じる」ことが一番正しい答えとされる。

だからすぐに死ぬし、殺すし、別れるし、孤独になる。
一言で言えばキャラが「儚い」んである。
もちろんそれが松本零士の作家性であるし、唯一無二の部分であると思う。
ロマンが最優先であるからこそ、そのロマンが刺さればめちゃくちゃに痺れるんである。
アシスタントをやっていて絵柄的にはフォロワーに近い新谷かおるの作品を読むと、その違いがわかる。
新谷かおるももちろん創作としてのロマンは大事にしつつも、キャラが図太いし現実的なのである。
なので、じつは「ハートフル」は松本零士と相性が悪い。
さよならにところどころ出てくるハートフルシーンがとってつけたように見えるのは、たぶんそのせいなのだろうと思う。

閑話休題

そうして私の心は落ち着いたわけだが、999は決して嫌いになったわけではなく、その後も普通にテレビ版も原作も追っていたし、いまでも劇場版一作めはアニメの歴史のなかで語られるべき名作だと思う。

ちなみに数十年後に劇場版一作め、さよなら、エターナルファンタジーのDVDセットを買って改めて「さよなら」を観たのだが、じつはかなり良作だったことに気づいた。

前作より確実に作画にお金がかかっているし、前半の山場、鉄郎を999に乗せるためにパルチザンたちが身を呈して戦うところなど胸アツである。
ミャウダーと鉄郎の友情など、前作にない要素も盛り込まれていて、単独で観れば充分に面白い一作だった。

 

いま現在、劇場版一作めもさよならもテレビ版もアマプラで観られる。

いまは見放題からはずれてしまったが、少し前まではいつでもあのラストシーンが観られたのだ。

私はプラットフォームを駆ける鉄郎の姿をPCのモニターから観ながら「いい時代になったなあ…」としみじみと思った。

いまはいまで情報もコンテンツも溢れすぎてて消化するのが大変という側面もあるが、それでもあの12歳の頃の渇望を思うとはっきりと言える。

いまは、いい時代だと。